ブルーベリー 旅に出たい人へ
  風のひとりごと

諸君、旅人になろう!

 何をして旅人と言うのでしょうか?
 旅行者と旅人との違いは、どこにあるのでしょうか?

 人は、みな旅をします。人生という旅。冒険という旅。心の旅。放浪への旅。いろいろな旅をします。しかし、必ずしも人は旅行をするとは限りません。旅行をしない人なら確実に存在します。いわゆる出無精の人です。
 しかし、そういう人たちでも旅ならしているものです。夢想という旅。心の中の旅。思索する旅。学問の旅。人生という旅。旅をしない人など、この世に存在していないと言ってもいいかもしれません。

 人は、みな旅人と言えます。人生は大いなる旅だからです。そういう意味では『旅』という概念は、『旅行』という言葉のもつ意味よりも広く深いものがあります。では、いったい『旅』とは、何を意味する言葉なのでしょうか?

1. 未知の世界を訪れる。
2. 見知らぬ世界に飛び込む。
3. まだ見ぬものを見ようとする。

 これらは、すべて旅と言えます。だから心の中にある未知の世界を訪れることであり、思索の旅なら未知の世界を思索することかもしれませんし、学問の旅なら見知らぬ学問の世界に飛び込むことになるのかもしれません。

 旅人と旅行者。
 この両者は、どこが違うのでしょう?
 もうおわかりですね。
 旅人とは、旅をする人のことを言うのです。
 必ずしも旅行者のことを言うのではありません。

1. 未知の世界を訪れる。
2. 見知らぬ世界に飛び込む。
3. まだ見ぬものを見ようとする。

ならば、どんな形態の旅にしても旅人と言えます。もちろん、旅行者が旅人であることも大いにありえます。ただし、旅行者が、必ずしも旅人であるとは言いきれません。

 旅行をする人は大勢います。でも、旅行者の中に、どれだけの旅人が存在しているかは疑問です。パックツアーの中に、どれだけ見知らぬ世界に飛び込む行為があるのかは、疑問です。せっかくユースホステルに泊まっていても、誰とも口をきかず、内輪だけでかたまっていたら、どれだけ見知らぬ世界に飛び込む行為なのかも疑問です。毎回、同じ所ばかり旅することだって、どれだけ、まだ見ぬものを見ようとする態度といえるのか?

「かわいい子には旅をさせろ」

という言葉があります。かわいい子に、未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界を見せ、その子の人間的成長を願う言葉です。決して旅行の趣味を持たせようという言葉ではありません。この言葉こそ、旅の本質を表していると思います。

「旅オタク」

という言葉があります。旅オタクは、実に旅について詳しかったりします。どこそこの宿は奇麗だとか、どこそこの食事は美味しいとか、どこそこの景色は美しいとか、何だって知っています。それは、まるで歩く情報誌です。でも、こういう人間が旅人であるかどうかは、非常に怪しいものです。旅人というより旅行者の場合が多い気がします。

 本当の旅人は、オタクとは縁のない世界にいるはずです。旅人にとっての最大の興味は、『未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界』であって、決して情報ではないはずです。宿の設備状況よりも、偶然にも一緒に宿に泊まり合わせた人たち(またはオーナー)の作りだす、『未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界』の方に興味があるはずです。

 旅人の求めるものは、情報ではありません。世界です。自分の知らなかった世界です。その世界が、山だったり、海だったり、外国だったり、文化だったり、歴史だったり、人間だったり、心のふれあいだったりするわけです。決して、細かい旅情報ではないはずです。

 幕末の志士たちは、みな偉大な旅人でした。歴史に名を残した偉人たちも、すべて偉大な旅人だったことは歴史が証明しています。しかも、熱心に手紙を書く人たちだったことは、よく知られていることです。
 世界を見、自分の知らない世界を知り、未知の世界を訪れては感動し、それを熱き想いで手紙にし、そしてまた、まだ見ぬ世界を求めて旅立っていました。それが幕末の志士たちであり、歴史に名を残した偉人たちであったわけです。
 1852年。幕末(江戸時代後期)の頃、日本に四隻の黒船(蒸気船)がやってきました。いわゆるペリー来航ってやつです。日本中の人という人は、驚愕してしまいました。なぜか日本人だけが驚愕してしまいました。

 それはなぜか?

 黒船(蒸気船)は、世界中に行っていたはずなのに、なぜか日本人だけが驚いたわけです。それはなぜか?

 理由は簡単。見知らぬ世界を見てしまったからです。西欧文明という未知の世界を見てしまったからです。つまり、当時の日本人には、旅人の精神が宿っていたわけです。だから、まだ見ぬ世界に向かっていき、今日の日本を作っていったわけです。私たちの国は、旅人によって作られたのです。
 私は、以前、旅人が日本の歴史を変えたと書いたことがありましたが、もし幕末の日本に旅人が存在してなかったら、とんでもないことになっていたはずです。『未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界』を全く拒否してしまっていたら、日本は絶対にどこかの植民地にされていたまずです。現に、旅人の精神のなかった国々は、全てヨーロッパ諸国の植民地にされてしまっています。

 これは、人生についても言えることです。『未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界』を知ろうとする心を失った時、人間の成長は止ってしまいます。そういう意味で、旅人の精神を失うことは、人間にとって非常に大きな痛手のような気がします。

 私は昔、世界中を旅したことがありましたが、その時、たくさんの自称「旅の達人」という人に出会いました。その人たちは、会社を辞め、アルバイトでお金を貯め、「地球の歩き方」を片手に何ヶ月も世界中を放浪していたわけですが、私の目には「旅の達人」というよりも、海外旅行オタクに見えました。何ヶ国に行ったとか、何ヶ月旅をしているとか、☆☆☆を食べたとか、そんな話しばかりするからです。
 異国の歴史の話をしようとしても、異国の文化の話をしようとしても、北海道の話をしようとしても、山の話をしようとしても、全く受け付けてくれない。こういう人たちを「旅の達人」と言うのでしょうか? 私には、ただの旅オタクにしか見えませんでした。

 会社を辞めなくてもいい。年に十日の有給休暇しかなくったっていい。たった十日すぎない日程だって、『未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界』を求めて旅をすれば、その人は立派な「旅の達人」です。
 旅の本質というものは、会社を辞めるとか、何ヶ月も旅行するとかではありません。遠いとか近いとかも重要な問題ではありません。回数を誇ることだって馬鹿馬鹿しい。それより自分にとって未知の世界を開拓することが大切です。

 鉄道にしか興味のない人、バイクにしか興味のない人、気に入った宿にしか興味のない人、ユースホステルで歌う歌にしか興味のない人。これらの人々は、何百回、旅をしても、自らの行動をしばってしまうようでは旅人とはいえません。旅行者または旅オタクであって旅人ではありません。むしろ、旅人の正反対に位置する概念です。でも誤解しないで下さい。私はオタクが悪いと言っているわけではありません。

 だらだらと、つまらない話をしてしまいました。
 そこで、そろそろ結論をだしたいと思います。

 旅人とオタク。
 この二つの言葉は、正反対の意味をもっています。難しい言葉で言えば反対概念といってもいいです。自分たちの世界に閉じこもるのがオタクだとすれば、未知の世界に飛び出すのが旅人です。どちらをとるかは、みなさんの自由です。

 私は、旅人でありたいと思っています。でも、「何の旅人でありたい」ということは全くありません。そして、『風のたより』は旅人の手紙でありたいと願っている者でもあります。もちろん何の旅人であるかは問いません。何の旅人であってもいいですから、旅人どうしで集りたいと願っているものです。

 私たち旅人の求めるものは、世界です。どういう世界かは、各自でいろいろあると思いますが、何かを求めて、何かの世界を求めて旅をする。それが旅人だと私は考えています。
 お金が無くて遠くに行けなくったっていいじゃないですか。休暇がなくて何日も旅することができなくてもいいじゃないですか。身体に障害があって山に登れなくったっていいじゃないですか。死ぬほど文字を書くのが苦痛だっていいじゃないですか。未知の世界・見知らぬ世界・まだ見ぬ世界を求めて旅をする人ならば、立派な旅人なのですから。私は、そういう人と大いに『旅』を語りたいですね。そして、一緒に旅をしたいです。
【風のひとりごと】
(旧「風のたより」21号掲載文・1994)

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