ブルーベリー 旅に出たい人へ
  風のひとりごと

あなたはなぜ
旅人になるのですか?

 『風のたより』の主旨。一言で言えば、手紙によって心と心のふれあいを求めていくことです。でも、この心と心のふれあいは、極端な親切や、過激な愛情や、聖人の教えの中から生まれるものではありません。何気ない日常生活の中から自然に生まれてくるものです。これは、ふれあいというものが、宗教・思想・イデオロギーを越えて、全ての人たちの心をホッとさせる証拠です。では、どうしたら『心と心のふれあいを求める』ことができるのでしょうか?

 皆さんは、心の底から感動する時ってどんな時ですか? どんな時に心と心のふれあいを感じますか? 例えば旅先で、道に迷って困っている時に、親切に道を教えてくれる人がいたら、とっても感動しますよね? 心がホッとする時って、そんな時ではないでしょうか?
 人間が心からホッとする時というのは、過剰な親切ではなく、さりげない救いの手です。席を譲る。道を教える。手をとってあげる。話を聞いてあげる。そんな、さりげない行為の中から心と心のふれあいが生まれてくる気がします。

 幸か不幸か、私たち旅人は、そういう経験をたくさん積んできています。旅先で道を教えてもらう。案内してもらう。泊めてもらう。御馳走になる。これらの親切に、どれだけ感動したことか。旅にハマッた旅人が、旅をやめられない理由は、そんなところにあると思いますが、いかがでしょうか?
 旅先には、心がホッとする事件がたくさん転がっています。見知らぬ人と心のふれあいをもてる機会が多いです。ということは、旅人になれば心と心のふれあいを体験するチャンスがあるわけです。では、どうして旅人には、そういうチャンスがあるのでしょうか?
 ここで、旅人の正体を解明したいと思います。

 旅人というものは『弱者』です。
 土地を知らない。
 道を知らない。
 まだ何も見てない。
 弱者以外の何ものでもありません。

 それに対して地元の人(土地の人)は、強者です。
 土地を知ってる。
 道を知ってる。
 何もかも知ってる。
 地元の人(土地の人)は、旅人に対して圧倒的に強者であるわけです。では、どうして私たちは、弱者(=旅人)なんかになるのでしょう? 自分の近所から一歩も出なければ、一生強者のままでいられるのに、どうして旅なんかに出るのでしょうか?

 篭の鳥は、篭の中にいる限りは、最大の強者でいられます。井戸の中の蛙も、井戸の中にいる限りは、最大の強者です。でも、それでは一生、心と心のふれあいなんかもてません。心と心のふれあいは、お山の大将の立場を捨てて、篭から出て、井戸から出て初めて体験できることだからです。

 でも、篭や井戸から出るということは、自分が弱者(=旅人)になるということです。これは、なかなか勇気ある選択です。自ら弱者を志願することなんて、なかなかできません。
 例えば、旅行会社の観光バスで旅行をする旅行者には、心と心のふれあいを得るチャンスは少ないと思います。その逆に、貧乏旅行でも自分で計画をたてて旅する旅人は、心と心のふれあいを得るチャンスは大きいでしょう。

 この場合、旅行会社の観光バスは、鳥篭であり井戸にあたります。その井戸を鳥篭を捨てられる覚悟があるかどうか? そこにふれあいに遭遇できるチャンスがあります。
 お金を払って旅行会社の観光バスに乗れば強者になれます。御客様という強者になれます。しかし、その強者の地位は、金で買った強者の地位です。そんな強者の地位に、はたして心と心のふれあいがもてるチャンスがあるでしょうか?
 だいたい観光バスの御客さんというものは、サービスを求めてふんぞりかえっているものです。強者がふんぞり返っていては、心と心のふれあいを求めることも、心がホッとするような事件にも出会えません。お金にものをいわせて豪遊する旅行者には、ふれあいを得るチャンスは少ないものです。仮にふれあうチャンスがあったとしても、それをサービスと勘違いする人も多いかもしれません。小さな親切をサービスと勘違いする人は多いものです。

 その逆に、貧乏な旅人には、心のしみわたる、心と心のふれあいを得るチャンスがあります。典型的な弱者である旅人こそ、心と心のふれあいに出会えるチャンスがあります。親切を純粋に親切と受け止めて、感謝する気持ちを手に入れる可能性が高い。そして、その感謝の気持ちを相手に伝える可能性も高いですし、それによって相手から何かリアクションが返ってくる可能性もあります。つまり、心と心のふれあいの機会が多くもてる可能性が高い。だから旅人は、旅に出るわけです。

 でも、旅に出られない人もいます。
 弱者になることを恐れる人もいます。

 私たちは、本能的に弱者になることを恐れます。
 居心地のいい強者の立場を失うことを恐れます。

 一人旅だと淋しい。一人旅だと話し相手がいない。一人旅だと感動を分かちあえない。そう考えている人は多いですが、それは、全く知らない土地に行く一人旅ほど、自分を弱者にしてしまう行為はないからです。だから普通の人は、一人旅をとても恐れるのです。
 でも、旅にはまった旅人たちは、どういうわけか一人旅をします。人によっては、一人旅しかしない人もいます。一人旅の方が、心と心のふれあいを得るチャンスが大きいからです。それらを考えますと、旅人という人種は、弱者になることを恐れない人たちと言ってもいいかと思います。

 この文のテーマは、「弱者になることを恐れては駄目だ! どんどん弱者になろうではないか!」ということにつきますが、そんなことを言っても、なかなか自分から弱者になれないものです。そんな勇気があったら苦労しません。
 一人旅が、どんなに素晴らしいと言ったところで、なかなかそれに踏み切れないのは、「もし淋しい思いをしたら?」「もし話し相手がいなかったら?」という恐れがあるからです。「誰も弱者に振り向いてくれないからではないか?」という不安があるからです。
 実際に、そういう可能性があるわけですから難しいところです。弱者になると言うことは、心と心のふれあいを得られるチャンスがあるということですが、そのチャンスをつかむためには、強者の立場にいる人の思いやりがなければなりません。しかし、強者の立場にいる人が、必ずしも思いやりを持ってる保証はありません。だからこそ私たちは、もっと弱者のことを考える必要があると思うのです。
 私たちは、全ての分野において強者でいることは不可能です。山の上では強者でも、海の中で弱者だったりします。海外旅行では強者でも、アウトドアでは弱者であったりもします。ペンションで強者の人間も、野宿では弱者だったりするでしょう。一人旅では強者の人間も、団体旅行では弱者であるかもしれません。
 誰だって、苦手な分野はあるものです。人は誰でも何らかの弱者であるはずです。自分も必ず弱者の立場に置かれることがあるはずです。そんな時、弱者として淋しい思いをするか、心と心のふれあいを得られるかは、強者の人たちの思いやり一つです。
 もし思いやりを願うなら、自ら弱者に対する思いやりを持つべきでしょう。弱者に思いやりを持てない人が、どうして人から思いやりを受けることができるのでしょう? 私たちが、弱者を中心に活動している理由は、こういうところにあるのです。

 しかし、本当は私たちなんか無くても、見知らぬ旅人がどうしが気軽に再会できた方がいいに決っています。自然と見知らぬ旅人がどうしが気軽に話し合うことができた方がいい。
 しかし、そう簡単に行かないのが現実です。そこまで人間関係に強い人はまれです。多くの人間は、もっとシャイです。それに、世の中には良い人ばかりがいるとも限りません。旅人で知合った人と手紙を交換したとしても、なかなか長続きしないものですし、旅先の出会いもそれだけで終わってしまうことが多いです。心と心のふれあいと言っても、それを実現することは難しいものです。

 だから私たちの存在に意味があります。弱者を対象として活動する『風のたより』やユースホステル協会のような団体が必要になってくるわけです。けれど、あくまでも必要悪です。本当なら、そんなもの無くても、心と心のふれあいを持てればそれが一番いいんです。

 ここで必要悪について述べてみましょう。警察官が多いことは自慢になりません。自慢するべきことは、警察官が少ないことであって多いことではありません。できれば、警察などなくたって、泥棒も、痴漢もでてこない世の中が理想的です。警察は、必要悪と考えるべきです。
 これは軍隊に関しても言えます。軍備など、小さい方がいいに決っています。小さな軍備でも攻められない国。または、軍備がなくても攻められない国の方が、いいに決っています。軍備は、必要悪と考えるべきです。
 老人ホームや福祉施設にも言えることです。本来なら親を老人ホームに入れることは、恥かしいことです。福祉施設だって、そんなもの無くても困らない状態の方がベストです。老人ホームや福祉施設も必要悪なのです。
 学校だって同じことです。本当ならば、そんなものなくても、子供たちが進んで勉強をし、自らを鍛えて立派な大人に成長していければ、それにこしたことはないのです。学校もやはり必要悪なのです。
 そういう意味では、この文章だって必要悪です。こんなこと今さら強調しなくても、常識として誰の頭の中にもあるべきなんだと思います。しかし、世の中は、どんどん悪くなっていき、鳥籠や井戸は、ますます強化され、常識はどんどん崩れていく。そう思った私は、仕方なく立ち上がっています。そして、旅人に訴えかけているわけです。
【風のひとりごと】
(旧「風のたより」28号掲載文・1995)

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