ブルーベリー 旅に出たい人へ
  旅人的生活の方法

旅の発見

 私にとって「旅」というものは、偶然の発見によって手に入れたようなものでした。山ごもりがきっかけで、自分のルーツさがしをしたことは、前回の連載で述べましたが、山ごもりやルーツさがしをして思ったことは、
「これは旅行ではないな」
ということです。
「自分のルーツさがしや山ごもり」

「遠足や家族旅行」
は全く別なものであることに気がついたのです。

 思えば、これが「旅」の発見でした。旅行という言葉には、もっと軽い感じのイメージがありますし、娯楽といった印象がありますが、自分さがしや山ごもりは、娯楽と言うには、あまりにも重すぎたために私は、旅と旅行の違いについて考えるようになりました。そして、

 旅とは何か?
 旅行とは何か?

 そういう疑問について夜も寝られぬほど考えるようになり、毎日ボーっとする日々が続きました。その結果、「自分はどうして考えているか?」という疑問をもつようになったのです。日常と関係のないところで、あれこれ考えたり悩んでいる自分というものは、いったい何なのか? とやたらと悩み始めたのです。

 受験勉強が差し迫っているのですから、本来ならそのような思索の一切は無駄な時間つぶしです。そういうことをする暇があったら、他にやるべきことがあるのです。しかし、いったん「考える」ということを始めてしまった私には考えるという行為を止めることができなくなってしまったのです。そこで、ますます焦ったり悩んだりして、無理矢理思考停止状態にして受験勉強にはげむのですが、それをやると、ますますイライラがつのって何もかも手につかなります。

「自分は、人間が変ってしまった」

と感じた私は、無理に思考停止することをやめました。そして、非日常の世界で遊ぶことを大胆に行いました。つまり、何かを考えたり、自分さがしをしたり、山に登ったり、マラソンをしたりするのです。
 それは、受験を数ヶ月前に控えた受験生にとって無駄なことのように思えます。けれど私にとっては、その方が勉強する上で能率がよかったのです。3時間みっちり勉強するよりも、勉強を30分くらいでやめて、3時間くらい非日常世界を楽しんだ方が調子がよかったのです。
 しかし、世間一般では、その3時間を勉強に使えば、もっと成績が上がると思い込んでいたから、私は、何かにつけて衝突するはめになりました。学校で衝突し、家庭で衝突するたびに疎外感が膨らみました。友人たちも、先生や両親と同じようなことを言ってきました。それだけに私は、ますます世間から疎外されているような気がしてきました。その結果、
「自分は落ちこぼれている」
と感じるようになりました。

 人は、誰でも非日常の世界を必要とします。しかし、必要とする度合いの大小に個人差ができます。中学時代の私は、非日常世界を強く欲しました。それが受験戦争という視点から見たら「悪」だったらしい。
 両親も、先生も、親友も、非日常世界にひたる私を必死になって日常世界に連れ戻そうとしました。そして、我慢くらべのような受験勉強をすることが正しいと説教をしました。しかし私は、その我慢くらべに適応できずに落ちこぼれてしまった。この場合の、
「落ちこぼれる」
という意味は、我慢くらべに適応できないという意味です。何が何でも日常世界で頑張らなければならないという風潮についていけないという意味なのです。私のことを真剣に心配する人ほど、私が日常世界から脱線していると忠告してきました。

 落ちこぼれる。
 それは、どういう意味なのでしょうか?
 成績が悪いと落ちこぼれなのでしょうか?

 私は違うように感じます。何故ならば、成績の上下に関係なく落ちこぼれは存在するからです。進学校にも落ちこぼれはいるし、成績優秀な落ちこぼれもいます。成績優秀であっても、落ちこぼれは落ちこぼれなのです。
 これは、社会人になると、もっと「落ちこぼれ」の存在が明確になってきます。どんなに仕事ができても、どんなに有能な営業社員でも、一流大学出身者であっても、会社という日常世界から落ちこぼれる人は、いくらでもいます。会社という日常世界に適応できなければ、どんどん落ちこぼれていきます。

 落ちこぼれる。
 誰が好き好んで落ちこぼれるのを望む者がいるでしょうか?
 けれど現実には、あちこちで落ちこぼれる人がいます。
 何故でしょうか?

 その原因は、日常世界の絶対化にあるような気がします。
日常世界を絶対化しすぎると落ちこぼれる人が多くなるのです。

受験戦争にしても、出世競争にしても、それらを絶対化しすぎると、どうしても落ちこぼれが多くなる。そして落ちこぼれそうになると、必死に落ちこぼれまいと努力する。日常世界に無理に合せようとする。しかし、無理に合せれば合せるほど、人間がおかしくなってくる。

 これを防ぐには、非日常世界に入って自分を見つめ直すのが効果的ですが、世の中の大多数を占める日常世界の住人たちはそれを許さなかったりします。日常世界の適応者は、全ての人間に日常世界の論理だけを押しつけてくるからです。
 しかも彼らは、それが絶対に正しいと信じ込んでいます。精神論をふりかざしたり、根性が足りないとか、協調性が足りないと言ってきたりして、非日常世界に脱出しようとする私たちの逃げ口をふさいできたりします。
 それを突破して非日常世界に脱出したとしても、彼らは「落ちこぼれ」のレッテルを貼ってきますから、突破しようとする者は、非日常世界に脱出することに罪悪感を感じ、ますます精神がおかしくなってしまいます。

 人間は、非日常世界に入ってはじめて自分を見つめ直すチャンスを手に入れます。それがとても大切なことなのですが、それを「落ちこぼれ」と認識してしまうあたりに、ものすごい違和感を感じてしまいます。
 世の中には、自分を見つめ直さなくとも日常世界に適応できる人たちが大勢います。しかし、それはそれで幸せなことなのですが、ある意味では不幸なことでもあります。
 自分自身を見つめ直さなくても社会に適応できるということは、それだけ優秀な歯車だということですが、歯車として優秀であればあるほど、思考が停止してしまいがちだからです。毎日、同じ回転を維持すれば良い。つまりは、何も考えないでよいということと一緒だからです。
 そういう人たちは、同じ回転を維持できない人を叱り、非日常世界に脱出する人を「落ちこぼれる」と哀れんだりしますが、そこに日常世界の人々のもつ危うさがあります。こういう人たちは、下手すると思考を停止してしまい、どんどん人間らしさがなくなってしまうからです。そしてドンドン優秀な歯車となっていくからです。そして、ますますものを考えなくなります。

 だいぶ話が脱線しました。
 私は、自分の中学時代の話をしています。
 旅と旅行の違いに悩んでいた頃の話をしています。

 私は、図書館に行きました。旅に関する本を探すためです。すると「旅」をタイトルにつけた本の多くは、人生論のコーナーに置いてあり驚かされました。それに対して「旅行」をタイトルにつけた本は、レジャーや娯楽のコーナーに置いてありました。多くの作家たちが

 旅 =人生
 旅行=娯楽

という印象をもっていることがわかりました。そして旅と人生を関連付けて考える傾向があることもわかりました。そして、松尾芭蕉の本を読んだ時、う〜んと唸ってしまいました。

「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり」

 有名な『奥の細道』の冒頭部分です。松尾芭蕉は、いきかう歳月も旅人である。つまり人間の一生こそ旅であり、人生は旅そのものであると言ってるわけです。
 松尾芭蕉は、人生の大半を移動、つまり旅行に費やした人です。あちこちに物見遊山にでかけては、俳句を詠んで遊んでいた典型的な遊び人が
「人生こそ旅そのもの」
と言い放っているわけですから、私は松尾芭蕉は単なる遊び人ではないと考えました。松尾芭蕉には、隠れたる悩みや苦しみがあり、伝えられてない人生があると思いました。

 人生や生きざまの中に「旅」という要素が、どこかしらあるという発想は、優秀な歯車の口からは出てきにくいものです。管理社会に埋没している人間が、その管理社会を旅と捉らえるわけがないのです。
 私だって、山ごもりをする前までは、学校生活や受験勉強が旅であるとは、夢にも考えませんでした。けれど、自分さがしや山ごもりという非日常世界にドップリ浸かってみると、
「人生こそ旅そのもの」
という発想に大いに共感するようになっていました。
【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』28号掲載文・2000)

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